F&Aレポート

高知県の偉大なる過疎 馬路村

高知県の偉大なる過疎 馬路村

 馬路村はかつて林業で栄えた人口約1,000人の過疎ですが、今はゆずの生産、加工、流通を手がける、いわゆる第6次産業で復興を果たした村として有名です。(人気作家 有川浩氏の小説“県庁おもてなし課”でも舞台になりました)ある種の共同体のような村の運営と、強力なリーダーシップで村を変革させた馬路村農業協同組合 代表理事組合長の東谷望史氏に興味があり訪問を果たしました。

 通常は視察対応をしないという東谷氏が私ども一行を迎えてくださり、お話を伺うこと2時間と視察見学、その後馬路温泉入浴、宴会、翌日ゴルフという行程でしたが、東谷組合長は自ら、宴会、ゴルフもお付合いいただき、“いごっそう(男気、頑固)”という土佐男児の気風を肌で感じたツアーとなりました。都会が憧れる元気な田舎、馬路村についての詳細は、観光庁のHPより抜粋させていただきます。

■ 馬路村は、高知県高知市から車で走ること2時間、周囲を1000m級の山に囲まれる人口約1,200人の典型的な過疎の山村である。村の面積のうち96%が山林であり、林業が村の基幹産業であった。しかし、長期の木材価格の低迷などで林業は徐々に衰退していった。そうした中で、安定収入が見込める農産物として目を付けたのが、自家用に栽培していたゆずだった。馬路村には100年を超えるゆずの古木があり、毎年秋には黄色い実がなり、その実を絞り料理に使うという食文化があった。そこで、昭和40年頃から馬路村ではゆずの本格的な生産に着手した。

■ 当初はゆずを青果物として販売していたが、生産者の高齢化により手入れが行き届かなくなりゆず果実の見栄えが低下、販売に苦慮し、農協は常に赤字を抱える状況にあった。そこで、昭和50年代半ばに馬路村農協の販売課長となった東谷氏は、ゆずを青果でなく加工品として有利販売する方向を模索し始めた。昭和54年に農産加工商品第1号「ゆず佃煮」を商品化。昭和55年から京阪神で販売促進を開始し、昭和56年から産地直送事業を始める。

■ 昭和61年、ポン酢しょうゆ「ゆずの村」、昭和63年にはゆずジュース「ごっくん馬路村」(馬路村公認飲料)を商品化した。東谷氏はこれらの商品開発に携わる一方で、営業のため、県内外への宣伝販売や物産展へ積極的に参加した。これは延べ日数にして年間80日にも上った。こうした地道な努力の甲斐もあって、徐々に馬路村産のゆずの加工品が消費者に認知されるようになった。

■ また、日本の101村展において昭和63年にポン酢しょうゆ「ゆずの村」が最優秀賞、平成2年にゆずジュース「ごっくん馬路村」が農産部門賞を受賞したことも、馬路村を全国区にしたきっかけの一つである。

■ こうした成功の背景には、「名前も知らない村の特産品は売れない。名前を知らない村へは遊びに行けない。最初は村を売るしかない。」とのコンセプトのもと、「馬路村をまるごと売り込む」という販売戦略があったからである。これは商品デザインを外部の企業に委託し、デザインを「田舎」で統一し、商品のラベルやポスターのモデルに、村の子どもや農家のお年寄りを起用するなどローカル色を前面に打ち出した。

■ また、少しでも馬路村に訪れてもらおうとの考えから、直販の顧客に対し、季節感あふれる馬路村の様子や楽しみ方を情報提供する「ゆずの村新聞」や馬路温泉の無料入浴券、JAや村長あてのはがきなどを同封して、馬路村に来るためのきっかけ作りなども行っている。

■ 成果:林業が基幹産業であった小さな過疎の村が、高知のみならず全国的にも有名になり、今や全国各地に約35万人の顧客を抱え、ゆず加工品の売上は年間29億円を超えるまでになった。農協の加工場には、馬路村役場よりも多い60人以上が働き、全国各地から年間200~300団体もの視察団や年間6万人もの観光客が訪れるようになる等、馬路村の活性化にもつながっている。

■ 不便不利な地域でもやればできるという証明と新しい村おこしの手法としてテレビや新聞等多くのマスコミから取材されるとともに、過疎の山村で頑張る姿が共感を呼び、県内外から多くの講演依頼があり、各地で、馬路村が全国ブランドになるまでの取組を紹介している。「田舎は都会を追従するのではなくて、徹底した田舎にこだわった田舎づくりを目指す。都会があこがれる田舎を目指す」(東谷氏)。また東谷氏は、平成15年には、地域経済活性化に成功した実績のある「地域産業おこしに燃える人」に選定され、首相官邸での意見交換会に出席するなど、講演活動等も精力的に行い、馬路村の更なる知名度アップに努めている。

※人口減少時代のロールモデルともいえる取り組み。馬路村の今後の展開に期待しましょう!

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