F&Aレポート

白駒妃登美氏が語る日本史 「伊能忠敬の志と技術力」日本人の素晴らしさ・日本文化の素晴らしさ・大和魂ここにあり

白駒妃登美氏が語る日本史 「伊能忠敬の志と技術力」~日本人の素晴らしさ・日本文化の素晴らしさ・大和魂ここにあり~

■ 白駒妃登美氏の講演を聴くと偉人達が蘇り、日本を愛おしむ気持ちが生まれてくれるのはなぜだろう。白駒氏によって語られる秀吉、龍馬、諭吉はもちろん、教科書の中ではほとんど紹介されることのないジョン万次郎(漂流者が日本の歴史を変えた)、フレッド和田(東京オリンピック開催に人生を賭けた男)、永井隆(昭和天皇、ヘレン・ケラーにも愛された医学博士「この子を残して」著者)などは、涙なしでは聴けない日本再発見、目からウロコである。
■ 今回はそんな白駒氏の講演録から、「人生50年」と言われた江戸時代に、数え年56歳で測量の旅に出るというチャレンジャー、伊能忠敬氏をご紹介したい。(「歴史和ごころ塾in出雲」講演録より)

56歳のチャレンジ 伊能忠敬氏の一歩が後世の日本を守った
 伊能忠敬は商人だったんです。千葉の九十九里で育ち17歳のとき同じ千葉県の佐原という町の造り酒屋に婿養子に入ります。忠敬が婿入りした当時は倒産寸前だったそうです。その忠敬が経営再建を託されて婿入りしていくわけなんです。以来、忠敬は約10年かけて経営を立て直し、さらに家業の拡大に成功。そして50歳を迎えます。
 忠敬は長男に家督を譲り隠居。浅草に出て天文学者の高橋至時(よしとき)に弟子入りしました。実は忠敬の趣味は天体観測だったのです。このとき忠敬50歳、至時31歳です。

 そもそもなぜ地図をつくろうと思ったのでしょうか。忠敬は地球の大きさを知りたかったのです。忠敬は北極星を観測するという妙案を思いつきます。北極星はどこから見ても真北を指します。北極星の高さを二つの地点で観測し、角度を比較することで緯度の差がわかります。あとは二地点間の距離を測れば地球は球体なので、それで外周が割り出せると考えたのです。この二つの地点は距離が近すぎると誤差が大きくなるので、できるだけ離れた地点を選ぼうって。一つは自分達が今いる江戸、もう一つは蝦夷地です。

 当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、その許可を得るための名目が「地図をつくる」。当時、蝦夷地周辺には外国船が出没していましたが、幕府には国防に欠かせない正確な地図がなかったのです。そんなこともあり幕府は計画を許可。ただし幕府の援助は20両ほど。現在のお金に換算すると160万円。それ以上の費用はすべて自費でまかなえと。
 実際、忠敬は測量隊を組織して、足掛け3年で東日本の測量を終えます。その測量にかかった経費、今の金銭感覚でいうと3,000万円はゆうに越えると言われていますが、それを忠敬一人が全部出しています。
 忠敬は方位磁石と分度器、歩幅を頼りに一歩一歩計測していきます。忠敬はどんな状況でも同じ歩幅で歩けるように徹底的に訓練したそうです。

 その後、忠敬は地図を完成させます。江戸に戻った忠敬は地球の大きさを計算し、約4万キロという数値が出たんですけれども、ヨーロッパが当時の科学技術の粋を集めて測った地球の大きさと数値がぴたっと一致しているんです。
 師匠の高橋至時がオランダから本を輸入してその数値を見た時に、二人は手を取り合って喜んだと言われています。この数値、現在のスーパーコンピュータで計算した外周の誤差がわずか0.1%以下という驚異の精度です。

 東日本の地図を作って幕府に献上すると、11代将軍徳川家斉はそのあまりの見事さに息を飲みます。そして、「西日本も含む日本全土の地図を作製せよ」と命じます。
 再び江戸を出発し西日本に向かいます。しかし、西日本の測量は、60歳を超え体力が衰え始めた忠敬には、非常に苛酷なものでした。予定の3年で経っても九州は手つかず。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「歯も抜け落ちて残りが1本になってしまった、もう奈良漬けを食べることもできないって」と書かれていました。その頃、忠敬は肉体だけでなく精神的にもきつかったんです。

 なぜなら忠敬が尊敬した師匠の高橋至時が40歳という若さで病気にかかってこの世を去りました。さらに、九州測量の途中で測量隊の副隊長がチフスで亡くなっています。尊敬する師匠と心から信頼していた部下を失って、忠敬はボロボロの身体を引きずって測量を終えて江戸に戻るんです。
 足掛け17年かけて忠敬が歩いた距離は約4万キロ、地球一周分です。江戸に戻った忠敬は70を過ぎていて、ついに忠敬は地図を完成させることなくこの世を去りました。しかし弟子達は、この忠敬の死を隠し、地図の完成までこぎつけました。「この日本最初の実測地図”大日本沿海興地全図”は異能忠敬がつくったものである」ということを世に知らしめたかったからです。

 江戸城大広間、幕府の重鎮が見守る中、ついに「大日本沿海興地全図」が広げられました。3万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という途方もない規模のものでした。忠敬の喪が公表されたのは、その3ヶ月後のことです。

 忠敬の死から35年経つとペリーがやってきます。ペリーは日本という国を野蛮人が住んでいる未開の国だと見下してやってきました。
 ところがその日本に、ものすごい正確な地図がある。機械もないこの国になんでこんな地図が存在するのか。その地図と自分が船の上から日本の地形を見た時に、寸分の狂いもなかったんですね。それを確認すると、ペリーは頭の良い人ですからすべてを悟りました。「この日本という国は、我々の西洋に比べて文明が劣っているのではない。我々西洋とは質の違う文化を持っているんだ。そしてその異質の文化の中では、世界最高峰だんだ」と。
 忠敬の志、そして忠敬が示してくれた日本人の技術力が日本を守ってくれたんじゃないかと思います。