人の生活の基本形は、朝起きて夜寝る24時間です。ウィークデイが月曜日から始まり(キリスト教ではイエスキリストが復活した日、ユダヤ教では安息日である日曜日から始まりますが、1971年にISO(国際標準化機構)の勧告で、生活上も実務上も、週の始まりは月曜とされました)、週末になるとあっという間に1週間が過ぎたように感じます。1月から始まって、6月あたりまで来ると、1年を強く意識します。今年も半分終わったと。そうやって時が過ぎていきます。人生に刻まれる年月が増えていきます。皆さんは、流れる時間に何を刻んでいるでしょうか。話は⻑くなりましたが、そうやって6月が終わり、7月になりました。
6月から定額減税が始まりました。想定通り、Excel等を使用して計算をされているところはやや混乱が生じているところもありますが、全体的には、何とか進んでいるという印象です。減税があるのはありがたいが、そこに到る過程がここまで複雑な制度は、私もあまり経験がありません。しかも、全額減税されなかった場合は、給付に切り替わるという制度。所得税の減税作業は税務署の担当ですが、税務署は国⺠から税金を徴収する組織であり、給付する組織ではありません。つまり、この徴収→給付への切り替わりのタイミングで、所轄が税務署から市町村に切り替わるわけです。
7月の大きなイベントの一つに、20年ぶりに発行が始まる新紙幣があります。今回の新紙幣では、1万円札の顔が福澤諭吉から渋沢栄一に切り替わります。現金を扱う現場は大変のようです。日経新聞によると、ラーメン店の発券機を新しい紙幣に対応するために1店150万円かかるそうで、この150万円を回収するのに1年かかるという店⻑のコメントが載っていました。しかし、20年前と比べるとお札を取り巻く環境の変化は激しくなっています。1万円札の顔が誰であってもほとんど使わない、お札が変わっても関心がないという方もかなり増えてきたのではないでしょうか。私の場合ですが、日常持ち歩く財布は小銭入れ、1万円札を使用することはほとんどありません。1000円札を使うことすらありません。近所の魚屋さんで680円のお弁当を買うときとカード対応していないクリニックに行くときなどに限られます。国内でもほとんどのお店や役所の窓口でキャッシュレスを利用することができます。そのような人たちにとって、1万円札の顔なんて誰でも良い、ということでしょう。
振り返って考えると、お札の顔になると言うことは、世の中の誰もが認める=権威というものだったとのかもしれません。しかし、デジタル化する社会の中では、そんなもの=お札の顔になる権威なんて意味がないという意識に変わりつつあるのだと思います。福澤先生が消えるのは残念ですが、これが時の流れですね。時の流れは早い。