「どうせ」「いまさら」「所詮」のローマ字の頭文字をとって『DIS』。「『DIS』のあとには、否定語が続くのでやめよう!」と、私はよく講演で話します。
「どうせ、やってもムダ」「いまさら、意味がない」「所詮、無理よ」という具合です。『DIS』が口癖になっている人には、閉塞的な空気が漂っているのではないでしょうか。一緒にいる人まで暗い気持ちになるような気がします。
ロングセラー「思考の生理学」の著者である外山滋比古氏の「50代から始める知的生活術」にも「『どうせ』は禁句」という一節があります。 (「50代から始める知的生活術」外山滋比古著)
「どうせ」は禁句
仲間と山形へ旅行したことがあります。土地の人に案内されて、あちこち見てまわりました。最初に訪れたところで、靴を脱いで上がらなくてはならなかったのですが、そこを出た帰り道、仲間のひとりが歩み寄ってきて、
「あなただったんですね。さっき靴を脱いで上がったとき、イタリア製の高級靴があって、だれだろうと思ったのです」と、言います。
仲間のうちでも高級品の目利きとして一目おかれている人です。さすがだと感心するとともに、なにかホメられたようでいい気持ちでした。
その少し前に、私は定年で勤めをやめました。なんとなく灰色の余生が始まるようで、おもしろくない。このまま老い込んでしまうようで不安でもありました。
「そういう弱気を吹き飛ばすには、くよくよしていてはいけない。気分一新するには、生活も一新しなくてはなるまい。これまで質素につつましく生きてきたが、いかにもしみったれているではないか。ここで、豹変してみよう」などと考えたのです。
すべてのモノを高級品で揃えることはできません。昔から、宿屋の下足番は、客の脱いだ履物によって客の品定めをして、それをあらわす声でほかの人に合図する、ということを聞いていました。つまり履物が客の見分けになるということで、さすがに商売の知恵だと感じ入っていました。それを思い出して、最高級の靴を履けば、最高級の人間にはなれなくても、自分でえらくなったような気がするに違いない、そう考えたのです。
デパートへ行って、一番高い靴を見せてくれというと、店員がうやうやしく奥へ案内してくれました。イタリア製で、値段は75,000円くらいでした。履いてみると、さすがです。わが第二の人生もこの靴みたいになればいいと、思いました。
新しい人生を踏み出すにはこのイタリア製の靴が大きな力になってくれたようです。そう思えば75,000円は決して高くない。
年をとったら、おしゃれ、ぜいたくは、いいクスリです。やはり若返るのは難しくても元気が出ます。
「濱(はま)までは海女(あま)も蓑(みの)着る時雨(しぐれ)かな」(江戸中期の俳人 滝瓢水(たきひょうすい))
年をとって、第一の人生が終わると、もうあとはない。あっても余生だと勝手に決めてしまいがちです。まわりにそういう人が多いからかもしれません。どうせもう仕事を辞めたんだから、どうせ、することもないのだから…などと、「どうせ」という心理が先にたちます。この「どうせ」を封じるのが、年長者の知恵ですが、なかなか、その心境に達しないのが実態です。
海女は浜へ着けば、海に入る身、濡れることはわかっています。時雨が降ってきても、どうせ、すぐ濡れるのだから雨に濡れていこう、などというつつしみのない考えはしない。やがて濡れる身であることはわかっているが、それまでは濡れないように蓑を着て我が身をいとう、大切にするというのです。どうせ、という弱い心をおさえて、我が身をかばい、美しく生きるたしなみ、それが人間の尊さであるのを暗示しています。「濱」を「死」に読みかえることができれば、この一句の意味はいっそう深くなるでしょう。
人生を二度生きようとするには、この「どうせ」という考えを捨てて、我が身を大切にして進む心がなくてはなりません。作者の瓢水自身、第一の人生(一毛作目)は失敗だったといえますが、二毛作目で不滅の仕事をしたといえます。現代に生きる私たちに多くのことを考えさせます。
 
  
  
  
  