F&Aレポート

ディスカバー・ジャパン・アゲイン 万博とジャパニーズティー 〜世界が驚いた日本の「喫茶外交」2

<前回のレポートから>
●茶室で抹茶を飲んだアメリカの新聞記者は、日本茶を飲む時間を持つことで、理性的な判断が可能となり、社会課題への解決策へと進むのではないか、という意見を書いています。現代と同じかそれ以上に、日本茶の文化が海外で評価され、その本質まで受け止められていたのです。 日本茶は万博において、日本の文化を紹介するという役割も果たしてきました。過去の万博で展開された 日本茶の進出計画について知ることは、現代の私たちが日本文化についてあらためて知ることになるでしょう。現代の日本人の知らない日本茶の世界がそこにあるはずです。                     (「近代万博と茶」吉野亜湖 井戸幸一共著 淡交社

第2回パリ万国博覧会〜日本が初めて公式に参加

 第2回パリ万博は、フランス皇帝ナポレオン3世が第1回ロンドン万博(1862)に対抗する目的で、開催の勅令を下したことで知られています。

 水圧式のエレベーターが導入され、会場全体を見渡すことができたことは大きな話題となり、パビリオンのほか、売店、カフェ、レストラン、遊園地などの娯楽施設が併設され、総入場者数は1千万人に達し、ナポレン3世の目論見は成功を収めたといえるでしょう。

 また、日本が初めて公式に参加した万博で、この万博がフランスでの「ジャポニズム」の契機となります。

 江戸幕府の呼びかけで薩摩藩と佐賀藩も参加し、15代将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武(とくがわあきたけ)を派遣し、使節団には渋沢栄一もいました。

 日本パビリオン内に「茶店」=喫茶店が出展され、パリでは大変注目され、ナポレオン3世から銀メダルを授与されています。

 幕末混乱期、すでにこの時は横浜開港から8年を経て、日本茶が輸出品としての可能性を期待されていました。日本茶ブランドはアメリカで一定の地位を獲得しはじめ、オーストラリアの新聞で「アメリカ人が日本茶を偏愛している」と掲載されるほどでした。しかし、先行して世界市場を占めていた中国茶が圧倒的な人気を得ていた中、日本茶はこの万博でどのように展開されたのでしょうか。

パリに出現した江戸の茶店

 茶店を出店したのは、江戸の商人卯三郎(清水卯三郎)です。卯三郎は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県)の酒造業を営む家の三男として生まれ、江戸に出てオランダ語を学び、横浜開港後は外国商との取引に関わりながら英語を習得して英語辞典を刊行しています。

 卯三郎は、幕府がパリ万博の参加者を募集していることを知ると、「博覧会出品蒐集掛け拝命の件 江戸商人卯三郎より願書」(1866年2 月)を認め、参加を申請しました。

私どもは商人ながら、恐れ多くも御国の栄誉に叶うよう精々心を尽くし国産の良品を送り、外国の耳目を驚かせ、御国の恩に少しでも報いたく思います。なにとぞ出格のご慈悲を賜り、前述の御用を頂けますよう 一重に願い上げ奉ります。(「博覧会出品蒐集掛け拝命の件 江戸商人卯三郎より願書」)

 卯三郎がパリに出店した「茶店」は、当時「水茶屋」と呼ばれ、江戸時代に流行した有料で茶や菓子などを出し、人々が休憩できるもので、現代でいえば「喫茶店」です。

 卯三郎は、芸妓3名を雇い、茶店に常駐させていました。日本人女性が煙草を喫したりと普段通りに振る舞う様子もフランス人には珍しく、見物客が絶えなかったそうです。

 実際に目にしている渋沢栄一が「航西日記」に以下のように記しています。

この茶店は全体が檜造りで、六畳敷に土間をそなえ、便所もあり、もっぱら清潔を旨としている。土間で茶を煎じ、味醂酒などを貯え(客の)求めに応じてこれを供している。庭の休憩所に腰掛けを設け、かたわらに活人形(等身大の生きているかのような人形)を並べて観覧に備えている。座敷には、かね、すみ、さと、という三人の妙齢の女性が閑雅に座り、その容姿を見せている。衣服や髪飾りが異なるばかりか、東洋婦人が西洋に渡航するのは未曾有のことなので、西洋人はこれを子細に見ようと、縁先に立ちふさがり眼鏡をもって熟視している。この座敷は畳敷きで、客はこの上に上がれないので、彼女たちに近づくことはできない。蟻が群がるように絶え間なく観衆が集まり、後ろにいる者は容易に姿を見ることはできない。

 同報告書によると、茶店(キオスク)は「優雅な休憩用パビリオン」として、フランス人の好みに合ったようです。フランス人の感想として「細部の独創性と、そのデザインを支配する優雅さと調和の感覚に満足した」と述べられています。