F&Aレポート

お菓子の話 2 〜唐菓子(からがし)から発展した和菓子 

 公式に仏教が伝えられたのが欽明天皇戌年(538年)とされていますが、その頃より日本は大陸との接点を持ち、親交を深め、さまざまなことを学んでいきました。

 たとえば間食としての食べ物も、自然物をそのまま食べるだけでなく加工するという調理技術に触れていきました。それらは唐の国から伝わったということで、唐菓子(からがし)、唐果物(からくだもの)といって、人々に親しまれていきました。これが日本のお菓子の原点となっていきます。前回のショートケーキ続いて、和菓子に目を向けてみましょう。(「万国お菓子物語」吉田菊次郎著 参考)

和菓子事始め 点心

「イイクニ(1192)つくろう鎌倉幕府」の時代、新しい宗教が興り、民衆に広まっていった。食文化にあたって特筆すべきは臨済宗を開いた栄西が、中国から茶の樹をもたらしたことである。当初薬用飲料であった茶は、華やかな室町文化にあって茶の湯趣味として流行する。それに付随する形で茶会の点心がお菓子として発達してくる。

 点心というと今では中華料理の一部としてあまねく理解されているが、仏教では食事と食事の間、あるいは朝食前の空腹時にほんの少し食することを意味する禅の用語らしい。これが拡大解釈され、その折、食するもの自体をも点心と呼ぶようになっていったという。いってみればおやつの感覚である。初めの頃の点心とは、饅頭、果実、餅、麺といったもので、あくまでも添え物的な域を出るものではなかった。

 ところが東山文化と称された足利義政の頃には、茶道が盛んになり、同時にただの点心であったおやつが、さらに洗練されたお菓子として発達し、茶の子と呼ばれてお茶の引き立て役を務めるようになった。

 風雅な京菓子が確立していくのもこの頃である。練り菓子、餅菓子、蒸菓子、干菓子と充実し、味覚、形態、感性ともに研ぎ澄まされて今日の姿へと完成される。

饅頭 〜三国志「人頭を生贄にする」に端を発す

 和菓子というものが概ねそうであるように、この起源も中国に事を発する。

 伝承によれば、『三国志』で知られる諸葛孔明が南征の際、荒天を鎮めるために蛮族の人頭を生贄せよとの進言を受けた。人命を失うを忍びずと、麺に豚や羊の肉を混ぜて人頭に模し、祭壇に備えたところ天候は回復し、無事進軍を果たすことができた。

 この故事から蛮頭が転じて饅頭になったとか。優しく温かいイメージからは想像し難い恐ろしい話である。

 日本への登場は諸説あるが、鎌倉中期、宗より帰った僧侶 聖一国師が博多に住んだ折、留学先で覚えた饅頭の製法を栗波吉右衛門という人に伝えたというものである。吉右衛門はそれをもって虎屋と号する饅頭屋を開いた。

羊羹(ようかん) 〜なぜ『羊(ひつじ)』?

「羊羹」思えば不思議な字面である。もとは(あつもの)と呼ばれる、肉や魚介類を入れた熱い汁であった。禅僧によって中国から伝えられ、肉食は習慣に馴染まぬところから具は豆粉や葛粉など植物性のものに置き換えられていった。室町の頃、茶道の点心に用いられ、そのうち汁がはずされ中身だけの利用になった。形や色が羊の肝臓を思わせることから羊羹と呼ばれるようになり、味覚にあっては、当初は甘葛を煎じて甘味仕立てにされたが、

砂糖の普及に従いそちらに移っていった。変わり始めの頃は、わざわざ砂糖羊羹と称していたという。

どら焼き 〜日本人の英知と才覚が織りなす和洋折衷、和魂洋才

 そもそもは東京の名物であった。熱した鉄板に流動状のタネを流して焼き、その二枚でつぶし餡をはさむ。こうして出来上がったその姿が、船の銅鑼(どら)に似ているとのことでこの名がつけられた。三笠山の名前もあるが、これは当初半球形にへこませた鉄板にタネを流して焼き、中にうぐいす餡をはさんでいて、その形が奈良の三笠山に似ているとのことでの呼称であった。そもそもは別物だったのである。

 スポンジケーキから発したカステーラと餡の組み合わせは和洋折衷、和魂洋才。パン生地に餡を詰めたあんぱんと同じ発想。近年トラ焼きというものもよく目にするが、まるで虎のしま模様のように焼いたもの。ドラをトラにするこのアイデアにも頭が下がる。