「人の名前を覚える」「人によって態度を変えない」は、社会人としての基本的なマナーであり、それ以前に、より良い人間関係を築くための心得ともいえます。「そんなことは当たり前じゃないか!」と、言われるかもしれませんが、簡単なことのようで案外できていないこともあるのです。
かつて江戸の町人人口は50万人、武家人口50万人を加えると江戸の総人口は100万人。これは当時、世界一の人口密集都市だったといわれます(当時、北京90万人、ロンドン86万人、パリ54万人の人口)。
そんな江戸では、町が安泰で、商売が繁盛するためにさまざまな「暗黙の約束」がありました。それはあとになって「江戸しぐさ」というようになったのですが、異文化をもつ多くの人がひしめきあって暮らすのは、今の時代も同じこと。260年以上もの間、戦がなく固有の文化が栄えた時代の定めは、学ぶべき点が多くあると思います。今回は「江戸しぐさ」にある「三脱の教え」をご紹介します。
1、初対面のお約束「歳・職業・位は聞かない」
江戸時代には「講」と呼ばれる集会がありました。神社仏閣が中心となって信仰心を高めるための講や、地域の賛助活動としての講など、さまざまな講が各地で定期的に開かれていました。人々は講に参加することで、顔見知りになり地域に溶け込み、時に問題解決を図りながら支え合って暮らしていました。
そこには「三脱の教え」という暗黙の約束事がありました。それは、初対面の人に「お年はいくつですか?」「ご職業は何ですか?」「お位は?」。この3つのことを聞かないというルールです。
その理由は、先入観でその人を色眼鏡で見ないためです。この3つが先入観になると、公平な目で人を見ることができなくなります。
「人を差別しない口の聞き方をする」のが、江戸のかっこいい生き方(江戸しぐさ)だったのです。
男と女、肩書きや年齢、お金の有る無しによって、ものの言い方をガラリと変えたりする人は『井の中の蛙(かわず)(井中(いなか)っぺい)』と、言われました。
2、「芳名覚えのしぐさ」
講に参加する初心者側にもお約束がありました。それはあえて「名前を聞かない」ということです。不思議に思われるかもしれませんが、初心者は次のような手順で名前を覚えていくのです。
一回目は、座った両側の人の名前。次の回は、前の人とその両脇の人の名前。と、いう順で覚えるのです。それもわざわざ名前を尋ねるのではなく、人が呼ぶのを聞いて覚えるのです。回を重ねるごとに座を変えて全員を覚えていくようにします。
これを「芳名覚えのしぐさ」と、言います。
初めて会う人に「お名前は?」と、いきなり聞くのは失礼なこと。名前はとても大事なものです。観察力と気配り、用心深さを持って、全員の名前を覚えることが肝心とされていました。
現代では、初対面で名刺を差し出し、名前や肩書き、地位をつまびらかにしますので、先入観をまったく持たずに人を見ることは難しくなっています。その先入観は、無意識のうちに態度や言葉遣いに現れ、差別をすることにもなりかねません。
先入観を持たない、または先入観に左右されないというのは、非常に難しいことですが、自分自身が「先入観を持っているかもしれない」「差別しているかもしれない」と、気づくことは大事なことではないでしょうか。
封建時代で身分制度がはっきりしていた江戸時代において、むしろこうして対応な関係を築こうとすることが当たり前だったというのは、驚きに匹敵します。
補足として、「江戸しぐさ」は「江戸仕草」と書き、「思」はものの見方や考え方。「草」はそれに基づく行動を指します。「江戸しぐさ」は単なる道徳論ではなく、これが身についている人は「かっこいい大人」として広まりました。子どもは、「かっこいい大人」に憧れ、そのしぐさを真似たのです。「真似したくなる大人」=ロールモデルが存在した江戸時代。ここから現代の社会課題も見えてくるかもしれません。