「運」と「人材」について
波乱のない時代には英雄が現れないのだそうです。平和で安楽な時代には、有能な政治家がいなくとも困ることが少ないからだとか。だとすれば、今の世の中はどうなのでしょう。
世界の問題、組織の課題、暮らしの中のお困りごと。どこを見渡しても波乱あるあるで正解は見つからず「ウルトラマンでも、アンパンマンでもいい、英雄、現れてほしい!」と、願わずにはいられません。甚だ他力本願かもしれませんが。
「人間通」は(谷沢永一著1995年刊行)社会の問題を捉え、ユーモアがありつつ格調高く、深くまとめてあります。古くて新しいバイブル。今回は「運」と「人材」についてご紹介します。
ちなみに「人間通」とは、他人の気持ちを的確に理解できる人のこと。人の最高の喜びは周囲から認められること。「人間通」は、他人に最高の喜びを与えることができる人、すなわち今の社会に最も必要とされる英雄なのかもしれないと私は思うのです。(「人間通」谷沢永一著 新潮選書)
1、「運」について
世界の歴史を見渡せば、波乱のない時代には英雄が現れていない。鼓腹撃壌(こふくげきじょう)という空想的な憧れ言葉がある。古代伝説の代表的聖天子である帝堯(ていぎょう)の時代、老人が腹鼓(はらつづみ)を打ち足で地面を踏み鳴らして拍子を取り、気ままに歌って楽しんでいたという光景、すなわち平和で安楽な生活の象徴である。それほど結構な時代には、帝堯のほかに有能な政治家が現れる必要がない。傑出した指導者が求められるのは不幸な時代である。
「家貧しくて孝子現れ、世乱れて忠臣を知る」と言い伝える。平和の世にも忠臣はいるはずなのだが、なにも事件がおこらないから、壮烈な忠節を尽くす機会がないので、誰が正味のところ忠臣なのか人の目に見えない。ここぞという正念場で見事な振る舞いを示す出番がないのだから、誰にも認められず評判が立たない。潜在的な忠臣が鳴かず飛ばずの一生を送る。
いつの時代にも人材はころがっているはずなのに、真価を発揮できる機会が訪れてくれぬ場合が多い。英傑が英傑たりうるのは時代が求めて呼び寄せたからである。この間の機微はもはや運というしかない。
世の流れは人間を公平に扱うものではないと観念すべきである。その上でかりそめにも高望みせぬよう自戒し、己と時代との接点がどこにあるかを沈思するしかない。
大きな仕事ができる時期ではなくとも、当面の課題に磨きをかけて味わいを醸し出す気配りは可能であろう。幸か不幸か現代はいつどのような変化にさらされるかわからぬ不安定な過渡期ではないか。
2、「人材」について
天下に最も多きものは何か、と太閤秀吉が聞いた。それは、人、でござります。と曾呂利新左衛門が答えた。反射神経の鋭い秀吉がすぐ畳みかけて、では天下に最も少なきものはなにか、と聞いた。すると打てば響くように、それは、人、でござります、と新左衛門が答えた。
この会話は別に太閤でもなく曾呂利でなくてもよいのであって、つまりいつの時代でも世間が傑出した人材を求めているという勘所をうまく言い表した伝説なのである。
人材とは他に秀で世に稀なる才能の持ち主をいう。ただし勝負の世界とは異なり一般社会の組織においては衆を束ねて多数の構成員に活気を吹き込む先導者(リーダー)としての役割が求められる。組織を構成する個人個人の資質が優れていようとも、全員を結集する要(かなめ)の位置に人材を欠いては烏合の衆に終わるのである。
民主主義の社会は衆知に基づくとはいえ時代を先導するのはやはり抜群の才能である。傑出した人材を多く擁する社会ほど活気を呈するであろう。一般に才能は裸で跳躍するのではない。才能は見出され引き上げられ押し出されてこそ開花する。世の中は何事も組み合わせの妙を得て進行する。才能はもとより貴重であるが、才能を見出し鼓舞し激励し得る才能もまた尊い。そして新しい時代を切り開いて活路を見出す働きのある才能は、まだ海のものとも山のものとも判らぬ船出を待つ新興の実験的領域に見いだせるであろう。世にいう隙間狙いをも含めて、冒険的な新規の事業から明日を担う才能が芽生えるのである。