「読解力」の低下は、「コミュニケーション力」の低下
国際学力調査において、日本の子どもの読解力が低下しているというニュースを前回のレポートでご紹介しました。日本の子どもは科学と数学はトップレベルでも、読解力については前回の8位から15位へと転落しています。
「読解力」とは、単に文章を理解する力というものではなく、語彙力、思考力、表現力、相手の思いを汲み取る力なので、「読解力」の低下は「コミュニケーション力」の低下と言い換えることもできます。
これは日本の子どもだけの問題ではなく、私たち大人も見直すべき課題です。『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』には、その重要性が説かれていました。
◆ 国語が人生の基礎をつくる
国の土台をつくるもの、それは思考力だと思います。
そして思考力の土台になるのが母語、日本人であれば日本語です。
母語で思考することをしっかり認識するところから、すべてが始まるのです。
その意味で、思考力とは言語の運用能力ということもできます。
そして思考力を育み、母語の運用能力を高める教科である国語は、他のすべての教科の基礎になるだけでなく、人生の基礎になるといってもいいでしょう。
考える力は、訓練によって養われるものです。
言葉を一つ覚えることは、新しい概念や視点を一つ獲得するということです。
一つの言葉が、一つの新しい考え方との出合いをもたらしてくれるのです。
その時に重要になるのが語彙力です。
語彙力を高め、その上で意味と意味を繋いで文章の関係性を見抜く力=文脈力を身につけていくと、他人の思考も理解できるようになります。
すると自分の考えを深めるだけではなくて、人とコミュニケーションをとって
新しい考えを生み出していく、つまり協調性を持ちながら、自分の考えを言葉にして
新しい提案ができるようになるのです。
国家百年の計を考える時、これは次の百年を支えていく人間にとって欠かせない資質になると思います。
このような高い意識は言語能力と不可分です。
ただ器用に話せればいいわけではなく、しっかりとした文章を読んで、
そこに表れた精神の力を受け取ることも大切なのです。
そして、その人の精神を継承するには、書かれたものを読むことが一番です。
例えば、武士の心得が綴られた『葉隠』という本があります。
武士社会で生きていれば、その精神は自然に共有されますが、
現代の私たちにはうまくイメージできません。
しかし『葉隠』を読むと、当時の武士が何を考え、何を大切にしていたかがはっきりと伝わってきます。
そうした精神性を身につけるために江戸時代に行われていたのが素読です。
素読は意味を理解するというより、何度も音読して言葉を体に刻み込む学習法です。
精神性の高い文章を素読によって、自分の内側にしっかり入れると、それが力に変わるのです。
その素読のテキストとなったのが、当時でいえば『金言童子教』や『論語』でした。
そして、いまならば国語教科書が、その役割を果たさなくてはならないと思うのです。
◆絶対量が足りない一年生の教科書
そうした観点から現在の小学校一年生の国語教科書を見ると、力強さが足りません。
絵や写真を見て考えることを促す、対話的な授業に役立つ形式にはなっていますが、何しろ活字が少ないので、思考が簡素にならざるを得ないのです。
国語という教科は、まず子供たちに言葉をプレゼントするものなのに、
一年生で学ぶ漢字が少なすぎます。
六年間積み重ねても、江戸時代の子供たちの国語力には到底及びません。
これはおかしな話です。
時代が進めば言語能力も高くなるべきなのに、明らかに低下しているのです。
その差は江戸時代に教育を受けて、明治時代を過ごした人たちの残した
文章を読めば分かるでしょう。
非常にレベルの高い文章で書かれています。
漢語が多いだけでなく、思考がしっかりしていて、
言いたいことも明確に伝わってきます。また語彙も豊富です。
昔の日本人はそういう言語能力を持っていたのです。
いまSNSで交わされている、言語のレベルが必ずしも低いわけではありません。
軽やかにやり取りするセンスはいいと思いますが、語彙の絶対量が欠けているため、
同じような言葉を使ってしまう。語彙力に限界があるのです。
『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』(齋藤孝・著)