日本人が、床に這いつくばって雑巾がけをしていた理由 雑巾がけにみる日本人の労働観
■ 「雑巾がけ」。海外では「モップ」を使うのが普通のようです。床に這いつくばるようにして雑巾を持って拭き掃除をする日本人。(最近はあまり見かけないですかね?)そこに、日本人の労働観が潜んでいるというのです。航空会社の客室乗務員として旅行や仕事で20カ国以上の国々を訪れた白駒妃登美さんの日本史ワールドをご紹介しましょう。
(人生に悩んだら「日本史」に聞こう ひすいこたろう&白駒妃登美著 祥伝社)
日本と海外の労働観のちがい
「あなたは何のために働いているのですか」と尋ねると、海外ではほぼ100%「バカンスを楽しむため」と答えます。初めはそれも好ましく思えたのですが、労働者の権利としてストライキをする彼らをみて、違和感を覚えました。彼らの理想は、働かなくても食べて行ける楽園であり、労働は、非日常を楽しむための苦痛にすぎないのではないかと思えたのです。
一方、日本人の労働観はまったく違います。「古事記」や「日本書紀」を読めばわかりますが、日本では神様たちが自ら働いているのです。しかも、その労働は、神様だけにしかできないような特殊技能や知的労働ではなく、当時の日本人がやっていたのと同じ仕事でした。たとえば、日本の主神である天照大神(あまてらすおおみかみ)が機(はた)を織ったり、他の神様たちも田を耕したりしています。「万葉集」をはじめとした和歌集にも、天皇自らが労働を愛でる歌が数多く収められています。
「源氏物語」にもこんなシーンが。光源氏が須磨に流された場面です。天皇の子として生まれ、都で育った源氏が、須磨で、初めて田舎の人達の暮らしぶりに触れます。田舎の人たちですから、みんな農業や漁業に携わっています。かたや源氏は、高貴な身分で天皇に仕え、まつりごとを行っている。その源氏が、こう悟るのです。
「この世には、自然に仕える仕事と、人に仕える仕事がある。その違いだけで、職業に貴賤はない」と。
日本人にとって、古来、労働とは”神事”であり、感謝と喜びを表現するものでした。もう一歩踏み込んで考えてみると、日本人にとって、生活そのものが神事だったのではないかと思うのです。古くから、日本人は、お正月は歳神さま、お盆には御霊を家にお迎えする伝統を大切にしてきました。生活の場である”家”は、日本人にとって、単なる建造物ではなく、神様をお迎えする特別な場所でもあったわけです。だから、日本人は、家では靴をぬぎます。そして、床に這いつくばって雑巾がけをしていました。欧米では、床をモップで拭くだけです。掃除の仕方ひとつみても、日本人にとって生活そのものが神事であったということが、端的に表れています。
海外に出てあらためて気づくのは、日本人は異常なまでに清潔を求めるということです。これも「神様のために清める」と解釈すれば、ごく自然な習性です。つまり、日本人は、働くことや生活を通して、常に神様と一体となろうとしていたのではないか。だから、日常生活のひとつひとつを雑にせず、心をこめていた。
これこそが、日本人がずっとずっと大事にしてきた生き方であり、人生の楽しみ方ではないでしょうか。さて、あなたは「何のために働いているのですか?」。