私の本棚から「方言こそが日本語」「母語は精神である」
■ たとえば方言で考えてみよう。広島弁で「たいぎい」という言葉がある。標準語でいえば「面倒だ」「だるい」「疲れた」というような意味になるのだろうか。しかし、広島人が「たいぎい」というときには、「面倒だ、だるい、疲れた」だけではない、もっと微妙なニュアンスがある。標準語でピッタリと表現できる言葉がないところに、この「たいぎい」の意味があるのだ。
■ これは広島弁に限ったことではなく、すべての方言について言えることだろう。他の土地の言葉や標準語では言い表せない、その土地にある感性の部分といってもいいかもしれない。空気感みたいものである。その土地に育まれた情緒だったり習慣だったり、人の気性のようなものが方言にはある。方言はその土地の精神性が表れているといってもいい。
■ 言葉は単なる道具ではなく精神を表す。井上ひさし著「日本語教室」(新潮新書)の一節をご紹介したい。
1.母国語と母語は違う
母国語と母語は、まったく質が違います。私たち人間の脳は、生まれてから三年ぐらいの間にどんどん発達します。生まれた時の脳はだいたい350gで、成人、二十歳ぐらいでは1400gぐらいになります。ちょうど4倍ですね。4倍にもなるのに、なぜ頭蓋骨がバーンと破裂しないのかというと、脳はあらかじめ折りたたまれていて、泉門(せんもん)という隙間がちゃんとある。そこが発達していくから大丈夫なんです。
そんなふうに、脳がどんどん育っていくときに、お母さんや愛情をもって世話をしてくれる人たちから聞いた言葉、それが母語です。
赤ん坊の脳はまっさらで、すべてを受け入れる用意がしてあります。ですから、日本で生まれても、まだ脳が発達していない前にアメリカに行って、アメリカ人に育てられると、アメリカ英語がその子の母語になります。赤ちゃんは、自分を一番愛してくれる人の言葉を吸い取って、学びながら、粘土みたいな脳を、細工していくからです。
有名なアヴェロンの野生児とか、いろいろな都合で人と会う機会がなくて、森の中で育った子どもを後で引き取ったという事例がありました。それでわかったのは、15歳ぐらいを過ぎると、どんな言葉も覚えることはできないということです。言葉は、脳がどんどん生育していくときに身に付くものなのだということです。
2.母語より大きい外国語は覚えられない
言葉は道具ではないのです。第二言語、第三言語は道具ですが、母語=第一言語は道具ではありません。アメリカでは、20世紀の前半に「言葉は道具である」という考えが流行しました。アメリカの合理主義と相まって、一時期、世界を席巻しますけれども、やがてだんだんと、そうではない、母語は道具ではなく、精神そのものであるということがわかってきます。母語を土台に、第二言語、第三言語を習得していくのです。ですから結局は、その母語以内でしか別の言葉は習得できません。ここのところは言い方が難しいのですが、母語よりも大きい外国語は覚えられないということです。つまり英語をちゃんと書いたり話したりするためには、英語よりも大きい母語が必要なのです。だから、外国語が上手になるためには、日本語をしっかり――たくさん言葉を覚えるということではなくて、日本語の構造、大事なところに自然にきちっと身につけなければなりません。
3.標準語は明治政府がつくった
近代国家に必要なものが少なくとも3つあります。一つは貨幣制度。東京で使うお金が九州で使えないのは困りますから、貨幣制度を統一する。二つ目は軍隊制度です。国民の軍隊を作る。三番目は言葉の統一です。近代国家は、まずこの3つをやるわけです。
なぜ言葉を統一するのか。そうしないと、たとえば軍隊で、東北の兵隊さんに九州の人が号令をかけてもわからないからです。逆もそうです。みんなを一斉にバッバッと動かすためには、全員がわかる、使える言葉をつくり上げないといけない。
というわけで、大急ぎでつくり上げたのが標準語なんです。山の手言葉とも言います。お巡りさんの言葉は常陸弁。それから「○○であります」というのは、山口の言葉。とにかくあっちこっちから集めて、これが日本語の大体であろうという言葉をつくって標準語にしました。言葉を統一したわけです。NHK(前身の社団法人日本放送協会)の仕事は、実はラジオによって標準語を広めるという任務もあったんです。官の側は言葉を統一しようという意志をずっと持っていました。だから、方言はいけないのです。
しかし、土台ムリなんです。統一しようなんて。でも、権力が強いと、まずは教科書を作って学校で教え込むし、やがてNHKという音の手本ができます。みんなが一応同じような言葉を話し出したのは昭和になってからだろうと思います。
逆に言うと、まだ日本語は完成されていないのです。一人一人の日本語はあるんです。でも、総和の日本語というのはありえないんですよ、実は。ですから、一人一人が日本語をきっちり、自分の日本語を、方言が入っていようがどうしようが、ものを正確に表現する、自分の気持ちを正確に相手に伝えられる、相手の言うことがちゃんとわかる。そういう言葉を使っていくこと、その総和が日本語です。
だから、「美しい日本語」というのは実はありえません。強盗がものすごく美しい言葉で、「お金を出してくださいますようお願い申し上げます。もしご無理ならお命を頂戴させていただきます」と言ったとしたら……それよりも、すごい方言でなまっていても、雨の中をずぶ濡れになって走っているときに「傘にはいんねか?」なんて言われたら、その日本語ってきれいでしょう。
こういうふうに、使っている人の言葉のそれぞれが日本語で、その総和が日本語なのだと僕は思っています。だからわれわれ一人一人が日本語を勉強して、日本語を正確に、しかも情感をこめて、自分のことはちゃんと相手に言えるし、伝えることができる、そのような言葉を一人一人が磨くしかないと思っています。