最近、地元の魅力をPRする観光アシスタント(ミス○○など)と呼ばれる方々の立ち居振る舞いや、言葉遣いなどの全般を指導するという講座を任されました。
またそれから数日後には、上場企業が年に一度行う株主総会に向けてのリハーサルに立ち会いました。
前者と後者はまったく別物ではありますが、共通点があります。それは、「緊張を強いられるシーンで一挙一動を第三者に観察される」ということです。
たとえば、姿勢から始まり、立ち姿、歩く姿、お辞儀の仕方、挨拶の言葉、目線、表情など、日頃は無意識でやっていることをあらためて見直し、指先まで整えなければならない状況でいかに好感度高く「期待される役割」をこなせるかどうかということです。
両者の経験を通してあらためて感じたのは「普段通りのことしかできない」ということです。いくら取り繕っても身についていないことをやる「不自然さ」は拭えません。
いざという時に「普段通り」でいられる人は、やはり時間をかけて積み上げてきた姿勢や心構えといったものがあるのでしょう。私自身も直接教えを受け、ノブレス・オブリージュ(紳士淑女教育)指導家として国際的にも人材育成に貢献されている上月マリア氏の一節をご紹介いたします。(皇室に学ぶプリンセスマナー 上月マリア著)
1、「帝王学」と「ノブレス・オブリージュ」
一般的には、将来天皇になる方に行う教育を「帝王学」といい、未来の天皇陛下の弟君や欧米の貴族など、高位の方に行う教育を、フランス語で「ノブレス・オブリージュ」といいます。また、名家の子女に行われるノブレス・オブリージュを日本語では「淑女教育」や「貴婦人教育」と称することが多いようです。
一方、「帝王学」という言葉は、企業の経営者などが自分の後継者を育てるときの教育としても使われています。帝王教育について、かつて天皇陛下は「重要なものとして、人間として望ましい人格をつくることが第一で、それに立場からくる色々なものが加わってくると思います。帝王学はその両方を含むものと考えます」とおしゃっています。ノブレス・オブリージュも貴婦人教育も、これと同じです。
2、「公」を支える「私」とは
皇族をはじめ、国や地域のリーダー的な立場にある人たちは、「社会のお手本になる」という天命を持つ人々でもあります。人の生活を「公」と「私」に分ければ、仕事や社交など、表に現れる面は「公」。それを支える裏の面は「私」です。そして、大地に立つ一本の木と同じように、「公」の面が大きければ大きいほど、それを支える「私」という根っこは丈夫でなければなりません。
もし根が貧弱なら、太い幹を支えることはできませんし、ましてや嵐に耐えうることもできません。無理が重なれば枯れてしまうでしょう。それではリーダーは務まりません。
だからこそ、帝王学もノブレス・オブリージュも、はじめに「心の教育」があるのです。
名誉も地位も財産も失うことはとても簡単です。ですが、自分の努力によって身につけた品性は、決して消えることはありません。そしてこの品性こそがその人の「芯」となり、考え方や言動の羅針盤となって、自分も周りの人々もともに幸せに生きる道へと導いてくれます。そして困難にぶつかったときには、自分を支える土台となってくれるのです。
3、「人に尊敬される人柄」とは
ところで「人として望ましい人格」とは、「多くの人に尊敬される人柄」といいかえることもできます。どのような心を持つ人が本物の紳士・淑女なのかを、「人に尊敬される人」という視点から見つめてみましょう。
たとえば、自分よりも立場の高い人や高名な人の前では媚びへつらい、立場の低い人に対しては威張った態度をとる人。その人を心から尊敬できますか?(次号につづく)