F&Aレポート

日本語は持続可能か? 2 ~変わりゆく日本語

日本語は持続可能か? 2 ~変わりゆく日本語

 私たちは普段何気なく、ヨコ書きのビジネス文書を読み、タテ書きの新聞や小説を読んでいます。今は一般的にタテよりもヨコ書きの文字が多くなってきたでしょうか。ホワイトボードを使用する際も、メモをとる際も、ヨコ書きにすることのほうが圧倒的に多いような気がします。時々、タテに文字を書けない(苦手)という若い人も見かけます。

 世界を見渡しても、日本語は文字をタテ書きにもヨコ書きにもできる珍しい国のようです。モンゴル語はタテ書きらしいのですが、ヨコ書きはないと聞きます。中国語は、もともとタテ書きでしたが、今はヨコ書きで統一されています。

 では、私たちが文字を読むときの目の動きはどうでしょうか。上から下へと目を動かすほうが自然に早く読めるような気がします。また、書く時もヨコ書きよりも、タテ書きのほうが文字のバランスが取りやすいと感じます。

「東大・京大で一番読まれた本」として話題になった「思考の整理学」の著者である外山滋比古氏の「日本語の作法」。前回につづいてご紹介します。(「日本語の作法」外山滋比古著 新潮文庫 初版平成22年)

1、タテか、ヨコか

 タテ書きとヨコ書きが同一紙面に共存するダブル・スタンダードは、官報だけのことではない。一般の新聞にも一部、タテ書きの中に、ヨコ書きを潜り込ませている。写真の説明や小さな囲み記事などでは面白い変化になる。版面が大きいからで、タブロイド判の官報には真似られない。

 雑誌、週刊誌は今のところヨコ書きはお嫌いのようで、一般読者向きのものでヨコ書きは専門的だというニュアンスを伴い、難しいと感じる読者が多いのを反映しているのだろう。一般書籍でも専門書を除けばタテ書きが圧倒的。ヨコ書きの小説もあるというが普通の読者は見ることもない。国語の辞書でヨコ組みというのはかなり以前からある。

 ことばに関心の強い人たちは、俳句、短歌がいつヨコ書きになるだろうかということに興味をもつ。立った俳句は寝た俳句とは味わいが違うはずである。

2、数字が増えたからヨコ書きになった?

 中国はことばについても急進的である。もとはすべてがタテ書きであったが、今はヨコ書きで一貫していて、詩文も例外ではない。タテは認められていない。

 もともと漢字はタテ書き、タテ読みを前提としている。視線の流れに直角に交わるヨコ線が発達し、それで文字の区別もしている。(一、二、三、鳥、島、月、日)これをヨコに読むと横線が死んでしまって、読みづらくなる。中国はそういうことにお構いなしにヨコ書きを強行したのである。

 欧米のアルファベットはヨコ読みのための文字だから、タテの線が重要である。(n、m、v、w)これをタテ書きにしようという人はあらわれない。合理的である。

 日本はタテとヨコの共存を認めるところが、ユニークである。われわれは目に見えぬところでこの折衷主義に影響されているように思われる。

 手紙、はがきをヨコ書きにするのはワープロ普及とともに始まったことだが、年配の人たちの間ではなお抵抗がある。現在、ヨコ書き前線は55歳から60歳に向かっている。

 メールはもちろんヨコ書きである。やがてヨコ書き前線は消滅するだろう。そうなっても短歌、俳句は断固として立ち続けるのだろうか。

 日本語を読むにはタテ書きが合理的であるが、泣きどころは数字である。なにごとによらず数がものをいうようになり、数字の使われることが多く、また、大きな数字が多用される。戦前、萬という数は日常的ではなかったが、今はごろごろしている。

 そういう数字をタテ書きにするのが難しい。手書きだと、一二三が二二二と誤解され、一三が二二と間違われる。十三と書く人もある。算用数字をタテ書きにする様式は近年、新聞の発明である。一人を1人と書いて、ヒトリと読ませたいらしいが無理。2人もフタリとは読めない。3人ならサンニンで良い。18都市、25年間など二ケタ数字をタテ書きするのが増えてきたが、見づらい。いずれにしてもタテ書き、ヨコ書き混用は見た目が美しくない。官報はその先端を往くものか。

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