「残心」の心得
<「君たちはどう生きるか」について>■「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)は、80年前に書かれた児童書ですが、現代に生きる大人たちの購買により、発売から3ヶ月あまりで100万部を突破するベストセラーとなっています。物語の主人公は中学2年生の「コペル君」。いじめなどの学校で起きる問題に悩んでいます。そんなコペル君にアドバイスをするのが、近所に住む叔父さんです。叔父さんは、コペル君とノートをやりとりしながら、悩みを聴きヒントを書きます。(ちなみに「コペル君」というのは、コペルニクスにちなんで叔父さんが少年につけたあだ名です。)
■あるとき、学校でいじめられている浦川君が学校に来なくなりました。コペル君は心配になって浦川君の家を訪ねることにしました。住所のメモをだけを頼りに浦川君の家に辿りつくと、浦川君の家は豆腐屋を営んでいて、浦川君は借金の工面を頼みに故郷の山形まで出かけていったお父さんの代わりに稼業を手伝っていました。背中に小さな弟をおぶって。学校では勉強も運動もできずバカにされている浦川君が、一人前に豆腐をつくり、店番をしている姿を見て、コペル君は刺激を受けました。「現実から逃げない姿勢がすごい!」と。コペル君は、浦川君が学校に通えるようになるまで、放課後、浦川君の家で勉強を教えることにしました。
■そんなことをノートに書いて叔父さんに伝えたのです。すると叔父さんは、いつものように長い返事を書いてくれました。そのタイトルは「貧乏ということについて」でした。
コペル君
君が浦川君のために、いろいろ親切にしてあげたことは、たいへんいいことだった。
ふだん学校で仲間はずれにされてばかりいる浦川君は、思いがけない君の好意に出会って、どんなに嬉しかったろう。君にしたって、自分の好意が、一人の貧しい孤独な友人をあれほど喜ばせることができたかと思えば、さぞいい心持ちだったろうと思う。
それに、みんなから馬鹿にされている浦川君の中に、どうして馬鹿にできるどころか、尊敬せずにはいられない美しい心根や、やさしい気持ちのあることを知ったのは、君にとって本当によい経験だった。
僕は君の話を聞いている間、君のしたことにも、君の話しっぷりにも、自分を浦川君より一段高いところに置いているような、思い上がった風が少しもしないのに、実はたいへん感心していたんだが、それは、君と浦川君と、二人が二人とも、素直でよい性質をもっていたからなんだろう。(中略)
もし君が、学校の成績のよいことを鼻にかけたり、浦川君のうちの貧しいことを軽蔑したりして、一段高いところから浦川君を援助してやるという態度をとったら、おとなしい浦川君だって、決してそんな好意を、喜んで受けはしなかったに違いない。
お互いに、少しもそんなことがなかったのを、僕は本当にうれしいことだと思っている。
とりわけ、君が、浦川君のうちの貧乏だということに対して、微塵も侮る心持ちをもっていないということは、僕には、どんなにうれしいか知れない。
コペル君、君も大人になってゆくにつれて、だんだんと知ってくることだが、貧しい暮らしをしている人というものは、たいてい、自分の貧乏なことに、引け目を感じながら生きているものなんだよ。自分の着物のみすぼらしいこと、自分の住んでいる家のむさ苦しいこと、毎日の食事の祖末なことに、ついはずかしさを感じやすいものなのだ。
もちろん、貧しいながらちゃんと自分の誇りをもって生きている立派な人もいるけれど、世間には、金のある人の前に出ると、すっかり頭があがらなくなって、まるで自分が人並みでない人間であるかのように、やたらペコペコする者も、決して少なくはない。
こういう人間は、むろん、軽蔑に値する人間だ。金がないからではない。こんな卑屈な根性をもっているという点で、軽蔑されても仕方がない人間なのだ。
……しかし、コペル君、たとえちゃんとした自尊心をもっている人でも、貧乏な暮らしをしていれば、何かにつけて引け目を感じるというのは、免れがたい人情なんだ。だから、お互いに、そういう人々に余計なはずかしい思いをさせないように、平生、その慎みを忘れてはいけないのだ。(「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著) 次号につづく)