「東京オリンピック開催」に人生を賭けた男
■ 焼け野原となった東京。1945年、第二次世界大戦に敗れた日本。それから19年後の1964年。日本再生の象徴となったイベントが行われます。東京オリンピックです。日本はオリンピックの開催に向けて新幹線、首都高速道路、地下鉄、ホテルなどさまざまな整備が行われ、カラーテレビの普及なども一気に進みます。そして、日本の経済成長率は年平均10%を超え、世界でも例をみないほどの急速な高度成長を成し遂げたのです。
■ 実は、東京にオリンピックを招致しようと、人生を賭けた男がいるのです。その舞台裏をご紹介しましょう。(人生に悩んだら「日本史」に聞こう ひすいこたろう&白駒妃登美著 祥伝社)
フレッド和田の祖国愛 自費で南米を説得に廻る夫婦
オリンピックを東京に招致しようという準備委員会が、ぶち当たった難問は、中南米諸国をどう説得するかということでした。誰に説得を頼もうか…。そのとき、「和田さんがいい」という声が出ました。日経アメリカ人、フレッド和田です。
日本名は和田勇。1907年、ワシントン州ベリングハム生まれの日系2世。貧しい少年時代を送り、4歳のときに、和歌山県御坊市の母親の実家に預けられ、9歳のときアメリカへ帰国。日系移民として太平洋戦争を経験。戦後、ロサンゼルスに移って青果店を開きます。その彼の名前が、なぜ、準備委員会で挙ったのかというと…。
当時の日本は外貨が不足していたため、スポーツ各種競技の国際大会に日本選手団を派遣するのが困難でしたが、アメリカで暮らしていたフレッド和田が、選手達を自宅に泊めたりして、自費で世話をしてくれていたからです。「和田さんならやってくれるのではないか」と、声がかかったのです。
「僕は東京でオリンピックが開けるなら、店のことなんて、どうでもええ思うとる。東京でオリンピックを開けば日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることができるやろう。それが、僕に与えられた使命、責務やと思う」
これが、その依頼を受けた時のフレッド和田の思いです。関西弁なのは、ご両親が和歌山の出身で、自身も幼少期に5年間和歌山で過ごしたからです。正子夫人も和歌山出身の方です。祖国・日本への熱い志をもつフレッド和田。しかし、当時の日本政府には、オリンピック招致活動に対して、フレッド和田に渡せる活動費用などありません。
国からお金などもらえなくてもけっこう。日本のためなら、私は自費で動く。フレッド和田は、なんと自らのお金で活動を始めたのです。このとき50歳です。裕福だったというわけではないのです。祖国を思うその気持ちが彼を突き動かしたのです。
フレッド和田は、中南米のIOC委員が東京開催を支持してくれるように、説得の旅に出ます。正子夫人を伴い、中南米諸国10カ国を巡る旅。すべては自費で、手土産まで用意して治安が悪い地域を40日間かけて回り説得し続けたのです。
最初に訪れたのは、メキシコ。フレッド和田の経営する店は、メキシコから野菜を輸入していたという縁もあり、メキシコは最初に東京支持を表明してくれました。
和田夫妻が次に向かったのは、革命直後のキューバ。戒厳令下にあり、空港のいたる所でで兵士が銃を構えています。キューバのIOC委員のモインク氏とは、こんな話になりました。「和田さんご夫妻は、ラテンアメリカを1ヶ月以上もかけて廻るそうですね。祖国にためとはいえ、そこまでなさる熱意に頭が下がります」これに対して妻の正子さんの答えは「フレッドは、東京オリンピックに限らず、祖国のことになりますと、夢中になってしまうんです」。和田の祖国愛に胸を打たれたモインク氏は、東京への投票を確約してくれました。
ところがブラジルでは、「東京開催を支持するが、投票が行われるミュンヘンのIOC総会に出席するには、飛行機代など莫大な費用がかかるので、援助がないと出席は厳しい」と言われてしまいます。すると、フレッド和田はどうしたか。
「だったら私が出します!」と。その言葉がブラジルに住んでいた日系ブラジル人の心を揺さぶりました。「和田さんに出してもらうのは、われわれ日系ブラジル人の恥。ブラジルのIOC委員の旅費は、われわれがなんとかします」。祖国日本を思う日系人は、ブラジルにもたくさんいたのです。
こうして、祖国愛から各国を回り続ける和田夫妻の姿は、次第に感動の渦を巻き起こしていきました。そして、中南米のIOC委員は、続々と東京に投票することを約束してくれたのです。
1959年5月、ミュンヘンでのIOC総会。オリンピック開催都市の投票結果は…、
○ ブリュッセル…………………………5票
○ ウィーン………………………………9票
○ デトロイト……………………………10票
○ 東京……………………………………34票
2位以下を大きく引き離して、東京の圧勝でした。
1964年、東京オリンピックが開催された4年後のオリンピック開催地はどこでしょう?
メキシコです。実は再びフレッド和田が動いたのです。「東京を最初に支持してくれたメキシコへ恩返しをしたい」と、メキシコオリンピック実現のために、2ヶ月近くもメキシコに滞在に、誘致活動から開催までのあらゆるノウハウを伝授したのです。そして見事にメキシコ招致に成功。フレッド和田の献身的な協力に感動したロペス大統領は、礼状と記念品を贈呈しています。さらにその後、1984年のロサンゼルス五輪の招致・開催にも協力して、日系人の自分たちを受け入れてくれたアメリカ社会にも恩返しをします。
まだまだフレッド和田の恩返しは終わりません。年老いた日系一世のために、今でいう老人ホームを建設したい。日系一世たちが、日本語で日本人の医師と看護師に診てもらえ、日本食を食べられて、日本語で仲間と語り合えるようにするために。
夢だったこの日系引退者ホーム新館は1989年に完成します。このとき、日本で集まった寄付金は、なんと4億3600万円です。和田夫妻にお世話になった人々がその恩に報いたのです。