F&Aレポート

F&Aレポート 2014年6月20日号     Presented by Aquarius Intelligence Institute Inc.

メールではなく、直接話す 「面授(めんじゅ)」という禅語

 最近は、たいていのことをメールで済ませてしまいます。本来なら直接話した方が早いことでも、ついメールの便利さに頼ってしまうことがあり、それが「普通のこと」になってきているように感じます。そんな中でドキっとする一文に出会いました。

「そもそも手が機械と異なる点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起こさせるゆえんだと思います。」(柳宗悦『手仕事の日本』
 これは、手仕事と機械仕事について述べていますが、たとえば、メールというデジタル機械を使って御礼を伝えるのと、手仕事として礼状を書くことや、直接話すというのは、「心の伝わり方」がまったく違うのだと、今さらながら気づかされました。
 「禅が教えてくれる美しい人をつくる『所作』の基本」(枡野俊明著)にも、以下の通り同じようなことが書かれていました。
 あくまでメールは道具だという認識は持っていただきたいのです。たとえば、失礼をお詫びするときに「失礼いたしました。申し訳ありません」と打ち込んで送信すれば、それで謝罪の気持ちが伝わるでしょうか。謝罪を受ける側に立って考えてみるとわかります。「こちらの表情も見ずに一方的に謝られても納得いかない。本人が“謝ったんだから”と自己満足したいだけだろう」
 道具を介したら誠意は伝わらないのです。「面授(めんじゅ)」という禅語があります。大切な教えは、師と弟子が直接顔を合わせて授けられるものだ、ということですが、道元禅師はこの姿勢をとても重んじ、厳しくそれを守るべきことを説いています。私たちの日常でも、体をそこに運び、顔と顔を向け合うことが大切な場面があります。
 謝罪のほかにも、御礼や依頼、相談事など……。面と向かえばその表情や声の調子、所作からも誠意は伝わっていきます。直接出向けない場合は電話でもいいです。要はメールですませてしまうか、それでよしとしないか。そこに人間の“差”があらわれます。
 私はこの一連の文章に出会って、メールに頼り、「メールが普通」と感じつつある今日このごろに喝を入れられたような気持ちになりました。いかがでしょうか。


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